2016年9月30日

東武鉄道 最後の54系

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▲東武鉄道モハ5450形 館林検修区 1973-7

1960年代、戦前型東武の代名詞であった32・53・54系一派は、73・78系を凌駕する最大勢力でした。総勢230両強、ルーツは昭和2-4年系の代表選手デハ5形を始め、特急車デハ10形・総武鉄道買収車・省規格形・鋼体化車・国電戦災復旧車・・・・・と目が眩むくらい複雑怪奇です。

3000系列への更新がほぼ終わる1973年夏、佐野線には3編成6両の54系が残っていました。
しかし平日昼間に少し動く程度だったようで、毎日踏切を渡っていたにも拘らず走る姿を見た記憶はほとんどなく、カメラも持ち始めたばかりの頃でマトモな記録はできませんでした。

館林検修区に休む戦前の特急車・デハ10形改造のモハ5450形。
54系の前歴は多岐に亘るため、車体形状だけで形式を判別するのは困難でした。
54系▲館林検修区 1973-7

モハ5473(←モハニ5473)。ブツ切れ写真ですが唯一車番が分かる画像です。
手前にいるモニ1470形はまだ一灯で赤色塗装でした。
モハ5470モハ5473の相方、クハ458。右側にいるのは元戦災復旧車のクハ453と思われます。
モハ5470
▲いずれも館林検修区 1973-7

館林で発車待ちのクハ453(?)。
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▲館林 1973-6

こちらも豆粒のようで恐縮ですが、唯一カラーで残っている画像です。
旧デハ10形のクハ400形と思われます。
東武▲佐野 1973-8

以上でオシマイです。
・・・・ではあまりに物足りないので、同時期に写した佐野駅の点景でお茶を濁して締めます。

両毛線は東武線と同じく電車より貨物列車の方が多く発着し、専用ホームや多くの側線がありました。しかし広い構内を持つこの駅も橋上駅舎化され、貨物廃止後はJR2線、東武2線のみとなり現在は見る影もありません。
佐野駅

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クモユニ74
115▲いずれも佐野 1973-6

最後まで残った戦前型東武でしたが、73年秋頃には全て3050系に更新され終焉を迎えました。同じ頃、日光線・宇都宮線に僅かに残っていた53系もこの数か月後には3070系に更新されます。
tobu-railway▲モハ5450形 館林検修区 1973-6

2016年9月27日

「くりでん」電車時代 その2

▲栗原電鉄M153 沢辺 1988-9

栗原電鉄は長閑な風景をひた走る典型的なローカル私鉄の風情ですが、鉱山鉄道の栄枯盛衰と共に歩んだ歴史を持つ側面もありました。

前回、1987年早春の訪問では終点・細倉に軸足を置きましたが、4度目の今回は沢辺のタブレット交換と周辺の田園風景が目当てでした。

1987年の訪問 →→ こちら
 
起点・石越には東北線石越駅と対峙して独立した駅舎があります。突込み線が1本だけのローカル私鉄らしい佇まいで、来る度にスナップしてしまう魅力がありました。
▲いずれも石越 1988-9

沢辺は交換設備と大きな駅舎を持つ中心的な駅です。
車庫がある若柳もほぼ同様ですが、列車交換はもっぱらこちらで行っていました。

▲いずれも沢辺 1988-9

ここで2時間ほど粘り、タブレット交換を狙います。沢辺地区の中心らしく、平日の昼間にも拘らずかなりの乗降客がありました。
▲いずれも沢辺 1988-9
 
沢辺の街は若干寂れているものの、酒蔵や商店もありました。
家々が途切れる辺りまで来ると、突然、広大な田園風景が現れます。
▲いずれも沢辺-津久毛 1988-9

一応の目的は達成しましたが、鶯沢周辺に行ってみることにしました。
駅を出てすぐ、細倉方に二迫川を渡る鉄橋があります。
小さい川ながら、冬に白鳥が飛来することで知られています。
▲鶯沢-駒場 1988-9

鶯沢から隣の尾松まで農道を歩くことにしました。
▲鶯沢-尾松 1988-9
 
▲尾松 1988-9
 
石越に戻り、あとは帰るだけとなりました。
遠くに機関車が見えたので近寄ってみると、本線から分断された場所にED351が置かれていました。元東武日光軌道線のED611です。
▲石越 1988-9
 
機関車は鉱山の終焉と運命を共にしましたが、うちガニ股電機・ED20形が安住の地を得た一方、ED35の方は長く放置されていたようです。その後どうなったのでしょうか。
▲若柳 1988-9

2016年9月24日

琴電志度線

▲高松琴平電鉄モハ23ほか 塩屋-房前 1989-2

「電車博物館」と称された琴電ですが、初訪問はひどく遅れて1985年になってからでした。憧れだった旧身延12000形や旧院電6000形といった強者には会えず仕舞い。

80年代後半、既に琴平線では京急旧600形・1000形や阪神ジェットカーたちがヌシ的存在になっており、生抜きの1000・3000・5000形の主戦場は志度・長尾両線へ移りつつありました。
▲モハ300 いずれも八栗 1989-2

1989年早春のこと、四国出張の機会がありチャンスとばかりに琴電をルートに入れました。
85年の初訪問以来でしたので仕事の荷物など二の次、これよりはるかに嵩む撮影機材を携えての出撃です。

さてヤボ用から解放された翌日、まずは春日川で下車。
早朝の時間帯に順光となる春日川橋梁で狙います。
▲春日川 1989-2 

早速やってきたのは3000形+旧山形交通860形のコンビ。
かなりのスピードで、1/500でもブレてしまいました。その後も20形2連、3000形2連と次々にやってきます。この鉄橋もコンクリート橋に架け替えられ、様相が一変してしまいました。
▲いずれも春日川-潟元 1989-2

その後は有名な「房前の鼻」へ。
こちらも防潮壁が建設されて展望が利かなくなっています。
▲いずれも塩屋-房前 1989-2
 
▲房前 1989-2

朝のラッシュが終わると今橋工場へ。旧南武と京急、窓の違いが際立ちます。
ラッシュ運用から戻ってきた20形や3000形も休んでいました。
▲いずれも今橋工場 1989-2

吊掛け車天国だった志度線ですが、旧名古屋市営の600形導入によって冷房化率100%を達成します。しかし、これに先立つ1994年、「コトデン瓦町ビル」工事に伴って本線から分断され孤立路線となってしまいました。そしてこの工事が経営破綻の引き金になったことは周知のとおりです。
▲モハ300車内 1989-2

2016年9月21日

海老名検車区の片隅で

小田急▲小田急電鉄デハ1406・デニ1303 海老名検車区 1990-8

小田急海老名検車区は、当時近くに住んでいたこともあって毎週のように覗く機会がありました。本日は野暮用の道すがら、片隅にいた電機たちを瞥見したときの記録からお送りします。

先ずはこちら、1984年当時のED1012。
西武や岳南鉄道にも仲間がいた昭和初期の川造型で、2両在籍していました。この時は特別に許可を得て構内で撮らせてもらいましたが、貨物廃止直後で保管状態は上々です。隣には1930年・日車と東洋のコンビになる無骨なED1031がいました。こちらは1形式1両。
ED1010
ED1010
ED1030▲いずれも海老名検車区 1984-10

さてそれから6年後の姿。
ED1012はそのまま放置されていたようで、塗装は剥落しかなり荒廃しています。ED1010
 隣にいるED1031は84年当時と変わりませんが、この後間もなく姿が見えなくなりました。新製車搬送用としてまだ現役でしたので、留置場所を移したのでしょうか。ED1030
 この時期には経堂から移された教習車、デハ1406と荷電デニ1303が架線のない場所に置かれていました。既にデニは解体が始まっています。
デニ1300▲いずれも海老名検車区 1990-8

・・・・更にそれから3年後。
あのまま朽ち果てたと思っていたED1012が再塗装され見事に復活しています。
ナンバーも大東急時代のデキ1012に変わっており、永久保存されると信じて疑いませんでした。
ED1010隣にはED1031に変わって1951年・三菱製のED1041が鎮座。
貨物輸送廃止後はED1031と共に新車搬入に活躍し、廃車は96年とされていますので一時的な留置と思われます。
odakyu次は電車の方です。
デニは流石に姿を消しています。教習車デハ1406の方は若干荒れた感じはありますが変わらぬ位置にいました。
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odakyu▲いずれも海老名検車区 1993-6

この後は記録しておらず、彼らがいつまで命脈を保ったか正確な時期までは分かりません。
デハ1406は1995年まで残っていた由、ED1012は再塗装後また荒れ始めそのまま解体となったようです。てっきり永久保存かと期待していた同機でしたが、叶いませんでした。
モニ2000▲相鉄モニ3連 かしわ台-海老名 1990-8