2017年4月29日

鷲羽をめぐる軽便電車 その1

▲下津井電鉄クハ24+モハ103 東下津井-下津井 1980-9

1980年夏のこと、初めての九州への道中、別府鉄道と共にルートに組み入れたのが下津井電鉄でした。72年に大半が廃止され、残るは僅か6.5キロの孤立路線ながら瀬戸内海を望む風光に貴重品となったナロー電車、外す訳にはいきません。

倉敷から快適なバス旅を満喫しながら児島へ、広いバスターミナルの片隅にあった掘立小屋のような駅から早速乗り込みます。
▲クハ24+モハ103 児島 1980-9

先ずは琴海で下車。
ここから海を眺めながら隣の鷲羽山まで撮り歩く・・・と目論むも、草木が伸び放題で眺望が効きません。適当な足場も見つからないのでナローの線路脇をそろそろと歩いて行きました。
▲いずれも鷲羽山-琴海 1980-9

午後の閑散時間帯はもっぱらモハ1001の単行が行ったり来たりです。
モハ1001は部分廃止に併せてクハを自社改造した車でした。この会社は自社で造ってしまうのが得意技のようで、ガソリンカーを電車にしたり単端を背中合わせにくっつけたりと、その独創性は越後交通に通じるものがありました。
▲いずれも琴海-鷲羽山 1980-9
 
▲鷲羽山-東下津井 1980-9

さて撮り歩くうちに下津井に到着、早速車庫を覗きます。
こちらは1961年製の主力車、モハ103+クハ24。
予備車のモハ102+サハ2+クハ22。
モハ103+クハ24の検査時に動く程度で、出動の機会はあまりありませんでした。サハ2は軽便時代の栗原鉄道の電車を付随車化したものです。
 
狭い下津井車庫ですが、興味深いゲテモノ車がぞろぞろといました。
モハ110は気動車改造の予備車。既に3連の予備車がいたので動く機会はほとんどないまま留置、そのまま展示物と化してしまいました。
▲いずれも下津井 1980-9

ここで全身の汗を拭って一休み、再び東下津井へ向かうことにします。
・・・次回に続きます。
▲下津井 1980-9

2017年4月26日

初信州へ 1974年

▲EF6320 横川 1974-3

長野の地を初めて踏んだのは1974年の春休み、小学校の「卒業旅行」のことでした。
尤も、当時はそんな小洒落た言い方はなく、徒党を組んで撮り回ってきた同級生らと、散り散りになってしまう前に遠出しておこうという算段でした。
▲高崎 1974-3
 
という訳で東武線始発列車で伊勢崎経由、まずは高崎へ。
行きがけの駄賃というには今は勿体ないですが、目に入った列車をスナップです。115系冷房車は登場したばかりでした。
▲いずれも高崎 1974-3

この日は急行「妙高」を奮発、初めての車窓の興奮冷めやらぬうちに長野県入りです。
まずは軽井沢で下車、目的はEF63と特急の連結シーンでした。

181系「あさま」を連結していざ碓氷を下ります。
▲いずれも軽井沢 1974-3

京福から里帰りした10000(→EC401→京福テキ511)も見物しています。
▲軽井沢駅前 1974-3

次は上田へ。目的はもちろん別所線ですが、真田傍陽線の廃線から2年、こちらも存廃問題が俎上に上がっていた頃でした。
▲いずれも上田 1974-3

子どもの訪問者は珍しかったのでしょうか、カメラを向けていると駅員さんが話しかけてきました。二言三言交わしてから「ちょっと待ってな」と一旦引っ込んで、今度は着札やら記念切符やらを持ってきてくれました。
▲駅員さんからのプレゼントです

さて、散々寄り道してようやく長野へ到着です。既に正午を回っていました。
先ずはこちら、地上時代の長電長野駅。ちょうど地下化工事が始まろうとしていました。
▲いずれも長野 1974-3

これだけスナップすると踵を返して次は国鉄特急。
初見参の381系も新鮮でしたが、ここでしか見られない「しなの」と「白山」の顔合わせを狙います。
▲同行者が写ってしまいました いずれも長野 1974-3

日帰りの貧乏旅ですから、一カ所に長居はできません。
入場券やDJスタンプなどをそそくさと集めると、急いで上り列車に乗車、目指すは屋代です。

屋代での目的はもちろんこちら、長電河東線(→屋代線)。
碌に記録できないうちに引退してしまった、デッカーこと旧東武デハ3形のモハ411がポツンと停まっていました。
まだ貨物が走っていた頃で、定山渓からやってきたED5102が待機中です。
▲いずれも屋代 1974-3

さて既に陽が傾いて、そろそろタイムアップですがまだ粘ります。
最後は小諸で下車。入場券やスタンプ集めで半端な時間を潰したのだと思いますが、この時はわざわざ「小諸懐古園」まで往復、保管されていたC56144を撮っています。
▲小諸懐古園 1974-3

こうして小学生最後の旅も終了、再び碓氷を越えて帰途につきます。
この峠の鉄路自体が消えることになろうとは、当時は夢にも思いませんでした。
▲長野 1974-3

2017年4月22日

一期一会の北恵那鉄道

▲北恵那鉄道モ561ほか 中津町 1976-7

1976年夏休みのこと、上野から信越線で長野、更に中央西線から新幹線経由で戻る「一筆書き大回り旅」で立ち寄ったのが北恵那鉄道でした。

長野から夜行急行「きそ5号」に乗車、4:20着の中津川で降りて北恵那の始発列車を待つか迷いましたが、早朝深夜にしか拝めない特急「金星」見たさに一旦名古屋まで往復です。
▲いずれも名古屋 1976-7

Uターンして中津町へ。
・・・とそこへ午前最後の上り列車がやってきました。このまま夕方までお休みです。


末期の主力、モ560形。
1926-27年製・旧名鉄モ560形(→モ670形)で、形式・車番は名鉄時代を名乗っています。

こちらは愛電の木造車を出自とするク550形。簡易鋼体化されていますがトラス棒など古めかしい外観はそのままです。



自社オリジナル、1924年・梅鉢製の木造車デ2。入換用として最後まで健在でした。




こちらも入換用のデキ250形。名鉄からやって来て一度も本線を走ることなく終焉を迎えます。
▲いずれも中津町 1976-7

早くも1972年から朝夕6.5往復だけの運行、あとはバス任せという末期症状を呈していました。結局、乗車も走行シーンを見ることも叶わぬまま昼寝姿を一瞥して終了、その後豊橋機関区・豊鉄市内線・名鉄・・・と早回りの旅を続けました。
あの時「きそ5号」を未明の中津川で降りていたら・・・と悔やむも後の祭りでした。

豊橋鉄道市内線 →→ こちら

▲中津町 1976-7