2017年5月30日

安直画像で綴る首都圏私鉄70’s その2

▲東京都交通局7077 大塚駅前 1974-5

1974年初夏、入手したばかりのヤシカを手に、例によって未明の上野駅から策動開始。
この日、初見参の20系「あけぼの」牽引機・EF65にマークが付いていないことにひどくガッカリしましたが、一くさり撮り終わった後はこれまた初めての都電を見に大塚へ向かいます。
▲7520 大塚駅前 1974-5

この頃はもちろんツーマン時代、7000・7500形が主役でした。
駅前電停にもかなりご無沙汰していますが、その後駅ビルができたり軌道線がフェンスに囲まれたりして、随分と狭苦しくなりました。

この年代のネガを見返してみると、道路やホームの其処彼処に空缶やら吸殻やら、諸々のゴミが写り込んでいますが当時は気にも留めませんでした。塵一つ落ちていない光景に慣れきってしまった現在、果たしてこれは良いのか悪いのか、ちょっと分かりません。
▲いずれも大塚駅前 1974-5

この日は子どもの日だったせいか、電車たちは国旗を掲げて走っていました。赤帯車は1978年春、新装開店を祝う花電車に見送られながら姿を消しました。
▲大塚駅前 1974-5

2017年5月26日

安直画像で綴る首都圏私鉄70’s その1

▲小田急電鉄クハ2451 新宿 1977-5

1970年代、中古ヤシカ片手に首都圏へ向かうと、次々に上ってくる夜行列車や特急を狙って上野・東京両駅を何度も往復するのが定番でした。そしてこれらが落ち着き始める昼頃から山手線をぐるりと回り、私鉄接続駅巡りをするのもまたお決まりのコースでした。

着線ホームからアップで撮ったお気楽な写真ばかりですが、改めて見直してみると40年前のターミナルの記録と言えなくもありません。物足りないボリュームながら、リハビリ運転を兼ねてシリーズでお送りしたいと思います。
▲新宿 1975-5

最初はこちら、小田急新宿駅です。
発着する電車は2400・4000系列が主役、ロマンスカーはSE車やNSE車だけでした。しかし現在の二層構造は古くからあったせいか、全体的な雰囲気はあまり変わっていない気がします。
▲いずれも新宿 1974-8

こちらは少し時代が下って、77年の姿。
10両編成に対応した大改良工事のせいでしょうか、線路の付替えの直中でした。

この頃の最新鋭は9000系。本形式を境に、長年親しまれた「小田急顔」に変化が生じていきます。
▲いずれも新宿 1977-5

2017年5月25日

ご挨拶~再開しました

▲大井川鉄道C108 千頭 2015-4

いつも小ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
更新が滞ってしまい、申し訳ありません。
お休み中も拘らず、日々200件前後のアクセスをいただきました。改めて御礼申し上げます。

万全ではないながら、リハビリを兼ねて徐々にですがアップして行きたいと思います。引き続き宜しくお願い致します。
▲青部-崎平 2015-4
 
▲102レ 千頭 2015-3

2017年5月7日

お知らせ~しばらくお休みします

▲新潟交通クハ46 燕 1988-5

いつも小ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
情けない話ながら、中高年の宿命と言いますか、肩を痛めてしまいしばらくの間更新をお休み致します。いつも訪問下さっている方には申し訳ありません。

充電完了次第、再開したいと思います。

▲高松琴平電鉄 春日川-潟元 1989-2

▲三井石炭鉱業 三池港 1992-12

2017年5月5日

関東鉄道 キハ300・350登場の頃

▲関東鉄道キハ802 中妻 1988-4  

長らく雑多なDCたちの楽園だった関東鉄道に大きな転機が訪れたのは1987年、旧国鉄キハ35一派が大挙して押し寄せたときでした。
時あたかも国鉄の解体直後、清算事業団から大量且つ安く入手できたという事情も追い風になりました。

1988年春、世代交代が本格稼働し始めた水海道を訪問。
基地の其処彼処に入線したばかりの35系列が転がっていました。

















在来車の車体側面にはこのような巨大な広告、何とも撮る気が失せます。
こちらは主力のキハ800形。1形式1-2両ばかりの常総線にあって5両の世帯でした。
一線を退き始めたせいでしょうか、1950年代製のメンバーには綺麗な車体が多く残っていました。まずはこちら、御殿場線への優等列車で鳴らした旧小田急キハ5000形のキハ751形751・752です。
同じ小田急車ながらこちらは旧キハ5100形のキハ753。


1954年製、1形式1両のキハ703形。当線には珍しい前面2枚窓です。


特急「しもだて」にも充当された自社発注のキハ700形。こちらも2両の小世帯です。
旧国鉄キハ07のキハ610形。側面に07時代の面影を残しています。

直通急行「きのくに」に活躍した南海版キハ55のキハ755。機器の関係で当線唯一の4ドア車になりました。

筑波鉄道からやって来たキハ301。
同線からの引継車で唯一稼働した車ですが、その後の35系大量投入のきっかけになりました。
▲いずれも水海道 1988-4

さて次は沿線で狙おうと、二つ先の中妻へ。
しかし巨大広告がどうにも目障りで、写欲は失せますが駅舎と無理やり組み合わせました。凄まじい建物ですが、これでも委託駅員のいる有人駅です。
▲いずれも中妻 1988-4

20年以上主役の座を保ち続けた35系列でしたが、年波には勝てず徐々に離脱。
ワンマン対応に改造され、最後まで残ったキハ100形がこの1月にお別れ運転をしたのは記憶に新しいところです。
▲竜ヶ崎 1988-4

2017年5月2日

鷲羽をめぐる軽便電車 その2

▲下津井電鉄クハ24+モハ103 琴海-鷲羽山 1980-9

1972年春、下津井周辺の道路事情から終端だけが残った当線でしたが、その際徹底的な合理化がなされて電車は最低限に、中間駅は悉く無人化されました。
残された軽便電車は6両、派手な紅白塗装は微妙ですが後年の落書き電車に比べれば充分にマシでした。
▲モハ1001 下津井 1980-9

さて引き続き下津井車庫を回ります。こちらは気動車改造車の生き残り、クハ5。
廃車後もそのまま保管され現在も駅跡に残っています。
旧井笠鉄道のホジ3。
部分廃止時、レール撤去工事用に購入したものの動力の具合が悪かったそうで、使用されることなくお役御免になりました。
▲いずれも下津井 1980-9

車庫を見て回った後は、再び草生した線路端を撮り歩きながら日没まで粘ることにしました。こちらは児島に向けて発車したモハ1001。



後ろに見える陸橋から児島方面からを望む。
歩くことしばし、撮影ポイントのΩカーブに差し掛かります。
咽返るような草いきれの中、再びモハ103+クハ24コンビがやって来ました。
▲いずれも東下津井-下津井 1980-9
 
東下津井まで歩いたところで時間切れ。
次の目的地、可部線へ向かうべく引き揚げることにしました。
▲鷲羽山-東下津井 1980-9

▲東下津井 1980-9

この軽便電車たちも、1988年の瀬戸大橋開通によって環境が一変してしまいます。生き残りを賭けた観光客誘致、悪く言えば遊園地の如き路線に変貌するも、その甲斐虚しく90年に幕を閉じました。のんびりと撮り歩いた晩夏の一日、そんな話はまだ遠いことでした。


1989年の様相 →→ こちら
1980年の別府鉄道 →→ こちら
 
▲いずれも東下津井-下津井 1980-9