2018年3月31日

南薩残照 その2

鹿児島交通ハフ53 加世田 1983-3

かつて総延長68.4kmの路線を有し、彼の地の交通の中心だった南薩鉄道。
しかし相次いで2支線を廃止、更に1964年、地場のバス会社に買収されて鹿児島交通になったあたりから潮目が変ってきます。そしてこの頃から加世田機関区に休廃車が集まり始め、次第に落人の里のようになっていきました。
▲キハ103 加世田 1983-3

落武者の亡霊のように其処彼処に佇む廃車群を見に行くのはビミョーな傾向ですが、やはり趣味的には見たい誘惑に駆られる車ばかりでした。

どれから撮るか迷うほどですが、先ずは現役気動車から狙います。
6両のキハ100形のうち101はキニ、105がキユニ、残りがキハ。私鉄の郵便手荷物専用車は珍しい存在でしたが、既に活躍の機会は殆どありませんでした。
キハ106の車内。 
こちらは私鉄版10系DCのキハ300形。
▲いずれも加世田 1983-3

さて次は木造客車です。
まずはこちら、1924年日車製・元北九州鉄道ハ43のハフ53。ダブルルーフ2軸車としては新しい部類です。
屋根が崩落しかかっていますが、辛うじて形を保っていたのはホユニ66。鹿本鉄道(→山鹿温泉鉄道)から1935年にやってきました。
奥のホハニ59はご覧のとおりでした。こちらは完全に立ち腐れの感です。
こちらは知覧線の前身、薩南中央鉄道キハ1だったエ4。
・・・と、一番見たかったテフ25(1882年新橋工場製、旧省ユニ3996)が見当たりません。駅員さんに聞いてみると「この前の台風で車体が吹っ飛んでしまって」処分したとのこと、下回りだけ虚しく残っていたうちの1両かも知れません。
▲いずれも加世田 1983-3

次は蒸機です。
5号機は1930年汽車会社製。

社線版C12タイプは延べ3両がいましたが、13・14号機が錆止めを塗られた体を晒していました。開業時からの独・ハノーバー製1号機がいた筈ですが見当たらず、庫の奥にいるようでした。
▲いずれも加世田 1983-3

解体費用がないのか、ハタマタいずれ蒸機復活を・・・と企図したはいいものの、頓挫して放置状態になったのかは分かりませんが、どれも崩落寸前で荒廃ぶりは事前情報以上でした。先ほどのテフ25の話も、強ち大袈裟ではないのかも知れません。

かの宮脇俊三さんは私鉄巡りの著書で「鉄道の墓場」と評していましたが、まさに朽ち果てるがままという表現がピッタリでした。

さて、ここから更に枕崎を目指すことにします。
・・・しつこくまだ続きます。
▲加世田 1983-3

2018年3月26日

南薩残照 その1

▲鹿児島交通枕崎線 日置 1983-3

遠すぎて敬遠しているうちに機を逸し、3度目の九州行で初めて訪れたのは鹿児島交通でした。

1983年春のこと、鉄研の山陰合宿の折でしたが、現地解散後どの方面に寄るかという話になり、降って沸いたように九州行が決定。鳥取から特急「まつかぜ」、更に博多から夜行急行「かいもん」で鹿児島への大移動・・・学生ならではのルートでした。
▲キハ103車内 1983-3
 
・・・という訳で「かいもん」は未明の伊集院に到着。
南国なのにえらく寒かった記憶がありますが、隣のホームにいた始発列車・キハ103に乗り込みます。真っ暗な中、吊革が左右にガチンガチンと当たる猛烈なピッチング、少し不安になってきますが先ずは日置で下車。辺りを徘徊しながら夜明けを待つうちに、伊集院行2番列車のキハ303がやって来ました。
やっと陽が昇ったところで、枕崎行の折り返し列車も捕まえます。バックの小山は駅員さんから聞いたのでしょうか、「地元では日置富士と呼んでいる」とのことでした。
▲いずれも上日置-日置 1983-3

振り返ると日置駅構内が見渡せました。ここで上下列車が交換、片時の賑わいを見せます。改札付近には「吹上浜ユース」の旗を持った、見送りのおばちゃん一団が来ていました。
▲日置 1983-3

こちらは交換した伊集院行キハ103。同車は加世田駅跡にできた「南薩鉄道記念館」で現在も保存されています。
▲いずれも上日置-日置 1983-3

日置駅舎。
大きい民家といった風情で駅名票もありませんが、数少ない有人駅の一つです。アプローチ部分は土間のままでした。

時間があったので駅舎内もスナップ。廃線反対の貼紙がどこか虚しい感じがします。

▲いずれも日置 1983-3

ホームから伊集院方面を望む。キハ103が折り返してきました。
▲日置 1983-3

さて、このキハ103に乗り込んで次は加世田を目指すことにしました。
・・・次回に続きます。
▲阿多-加世田 1983-3

2018年3月21日

安直画像で綴る首都圏私鉄70’s その14

▲京成電鉄モハ702 日暮里 1974-1

波状的にしつこく続けている安直シリーズ、前回に続いて京成電車です。
日暮里駅周辺は長い間、再開発から取り残されたような感ありですが、戦前の構造物が雑然と残っていて趣味的には魅力でした。

当時の日暮里のシンボルは戦前から続くRを描いたこの鉄柱ですが、竣工時は随分とお洒落な造形だったのではないでしょうか。
常磐線ホームは東北線・高崎線を行き交うデンシャも手軽に見物でき、カメラを持ち始めの頃からの馴染みの場所。20系の引退時や夜行急行のお名残撮影など、節目には必ず陣取っていました。
▲いずれも日暮里 1974-1

初めて間近で見た青電は200形。
200形は京成初の高速電車で、1978年に新京成へ移籍してからも90年の引退まで活躍しました。
▲日暮里 1974-8

どこか撮れそうな駅はないか・・・と日暮里から少し乗ってみましたが、皆目見当がつかず適当に降りて妥協です。
▲いずれも新三河島 1977-5 

こちらは赤電のオレンジ一色化が始まった頃の京成上野。
こうして見ると、全体の雰囲気が現在と同じような気がしますが、40年近くこれだけ変転がない私鉄ターミナルも珍しいのではと思います。しかし、2019年春に向けてニューアル工事が始まった由、この独特の空気感も変ってくるのでしょうか。

スカイライナーは初代AE車が発着していました。
 
隣のこちらの駅もまだ営業中です。
▲いずれも京成上野 1980-4

この当時既に休廃止の噂があった博物館動物園でしたが、実際は1997年休止・2004年廃止と随分後になってからのことです。
▲博物館動物園 1980-4
 
暗いホームに古色蒼然とした案内看板、閉鎖された窓口とエアポケットのようだった構内は残念ながら1枚も撮らず・・・なのでこちらはWikipediaから拝借です。
▲博物館動物園(Wikiから転載)